“努力している時点で向いていない”論者は、羽生結弦選手にも同じことを言えるのか

努力している時点で向いていない

という意見をしばしば聞きます。

自分の好きな言葉でもあり、嫌いな言葉でもあります。

“努力している時点で向いていない”論は、果たして正しいのでしょうか?
今回は、このことを考えていきます。

所ジョージ「苦労とか努力っていう人は、たぶん才能ないんだと思うよ」

タレントの所ジョージさんは、

苦労とか努力っていう人は、たぶん才能ないんだと思うよ。

と、テレビで話したそうです。

その道の一流の方が言うと、説得力があるように感じられますね。

「その道に適性のある者は、凡人が感じる努力は努力だとは思わず、夢中になって楽しめる。
好きなことなら辛くない。夢中で楽しんでいたら、いつの間にか成功者になっていた。」

みたいなことでしょうか。めちゃくちゃ理想的ですね。

しかし、そういう人だって、

じゃあ、あなたは努力も苦労も全然していないのですね。楽で良いですね!うらやましい🥳

と言われたら、怒りそうな気がしないでもないですが……

まぁ自分も、努力とは全く感じずに、夢中になって楽しめる分野に出会いたかったです・・・・・・
(※ 就活の適性検査などは、全くの無意味でした↓)

ちなみにこのブログも、今のところ普通に楽しめていますが、「頑張っている」とも思っています。
「ブログも向いていない」ということなんですかね😇

羽生結弦「努力って報われないなあって思いました」

しかし、先日の北京五輪のフィギュアスケート男子シングルで、4位を獲得した羽生結弦選手は、

努力って報われないなあって思いました。

と、試合後のインタビューで答えています。

羽生選手は、言わずと知れた世界トップクラスのフィギュアスケート選手です。

インタビューでは、

僕はオリンピックで金メダルを取るために、そして4回転半を決めきるための努力を、正しい努力をしてこれたと思ってます。

とも答えています。

このインタビューから分かる通り、羽生選手は「努力をした」と、自分で言っています。

ここで、疑問が浮かびます。

努力をしている羽生選手は、フィギュアスケートに向いていないのでしょうか?

そんなはずはないと思います。
「羽生選手がフィギュアスケートに向いていなければ、一体誰が向いているのか」という話です。

少なくとも自分は、羽生選手に

「あなたは努力をしているので、フィギュアスケートに向いていなかったんですよ~🤗」

なんて言えません。思うことすらできません。

そのため、”努力している時点で向いていない”論(者)は、以下の点では嫌いですね。

  • 「努力している」と自覚している一流を否定している。
  • 「じゃあ、あなたは楽しているんですね?」と言われたら怒りそう。

なお、努力をしている一流も、少ないわけではなさそうです。

努力は必ず報われる。もし報われない努力があるのならば、それはまだ努力と呼べない。

王貞治 (元プロ野球選手・監督)

努力せずに何かできるようになる人のことを「天才」というのなら、僕はそうじゃない。

努力した結果、何かができるようになる人のことを「天才」というのなら、僕はそうだと思う。

人が僕のことを、努力もせずに打てるんだと思うなら、それは間違いです。

イチロー (元プロ野球)

ぼく「そもそも努力ができない。努力するためのマニュアルとかあるの?」

一方、自分は上司に、

上司
上司

努力をしないのは甘えだ!

と怒られたところ、

ぼく
ぼく

自分は、努力ができない人間なんです……

努力をするためのマニュアルとかあるんすか?

「努力しなくちゃいけない時点で向いていない」という意見もあるのですが……

と、口答えをしてしまいました。

“努力している時点で向いていない”論は、努力をしない・できない言い訳として使える点では、大・大・大好きです。
「適性がないなら、成果が出ないのも当然」と考えれば、多少は気が楽になりますし。

自分は、中・高・大・院 (修士) と、受験の経験がそれなりに多くあるはずですが、どうも社会人として努力することができないようです。
別に昇給・昇進なんて望んでいないですし、それでも良いじゃないですか……

ただ、多額の教育投資を行ったにも関わらず、不良債権と化してしまった自分を持つ親は、きっと残念に思っていることでしょう。

まぁ、年収2,000万になれば良いだけですが……

努力の定義

ところで、努力の定義はあるのでしょうか。

努力をしない自分は、残念ながら知る由もありません。

しかし、コーチング×フィットネス事業を行う株式会社GOAL-Bの社長「中川 晃雄」氏は、努力を以下のように定義しています。

「努力」は結果でしかない。

ゴールに到達した「成功の結果」として努力が見えるから、「努力してる」は意味分からん。

努力はするもんじゃなくて、結果としてしていたことやから。

努力の定義

なるほど・・・・・・

自分の向いていることで、何の苦労も感じずにできるとしても、設定した目標を達成できたのなら、「努力した」と言えるのでしょうか。

ということは、中川社長に言わせれば、目標を達成できなかった羽生選手は、

向き・不向きはともかく、「努力した」とは言えない

ということでしょうか・・・・・・

まとめ:正しくもあり、間違いでもある

“努力している時点で向いていない”論に対して、自分は以下のように思っています。

  1. それ、「努力している」と自分で言っている一流に対しても言える?
    彼ら・彼女らは向いていないってこと🙄?
    空行
  2. へー、じゃあ君は好きなことやってるから、辛くないはずだよね?
    人生イージーモードっすか😂?w
    空行
  3. やったね、努力をしない・できない言い訳として使えるぜ!
    努力なんてやるだけ無駄なんだ😁!

なかなか結論が出ないのですが、“努力している時点で向いていない”論は、正しくもあり、間違いでもあるように感じます。

この論は、自分自身に対しては、努力しない・できない言い訳として適用させます。

しかし、たとえ向いていなくとも、一生懸命頑張っている他者には、わざわざ水を差そうとは思いません。

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